「おかえりなさい」と彼女は言った


その日はいつになくキャンプ場に着くのが遅くなってしまった。

北海道ではキャンプ場や安宿などのツーリスト向けの設備が充実しており、その日の寝床を捜す労力が他の土地に比べて圧倒的に軽減されるので、ついついギリギリまで走ってしまうことがままある。

この日特に遅くなってしまったのは、その湖畔のキャンプ場が以前にも利用したことのある場所だ・・という気安さからだろうか。

サイトにバイクを乗り入れて、荷物を解く頃にはすっかり日も暮れかけていた。

僕はヘッドランプの灯りを頼りに早速テントの設営を始める。
あらかた設営が終わる頃に、突然声をかけられた。

「あのー・・もしよかったら一緒に食事しませんか?」

若い女性の声だ。

見ると20代後半くらいのスリムな女性ライダーがこちらに笑いかけている。

突然のことにちょっと驚きつつ「え?あぁ・・・いいですよ。もうちょっとで設営終わるので待っていてください」と僕。

北海道のキャンプ場では、初対面のライダー同士が一緒に飲んだり食事をしたりすることは珍しいことではないのだけれどさすがに若い女性から声をかけられることは稀だ。


僕は平静を装いながらも、内心は結構ドキドキしていた。「一緒にって・・・二人で??」

彼女は「じゃあ準備が終わったらあそこに来てくださいね」と、ちょっと離れたところで車座になっているライダーの輪を指差した。

まぁ当然と言えば当然だけど、彼女は一人ではなく4人のグループで食事の準備中だったのだ。

僕はテントの設営を終わると、彼らの輪に加わった。

最初に声をかけてくれた女の子(Mちゃんとしておきましょう)、が他のメンバーを紹介してくれた。


よくよく聞いてみると、彼らは元々のグループではなく、それぞれがソロや二人組みでこのキャンプ場で知り合った仲だという。
既に出来上がっているグループに参加することが極端に苦手な僕はそれを聞いてホッと胸を撫で下ろした。

Mちゃんが最初に紹介してくれたのは、Sさんという40過ぎくらいのちょっとワイルド系のライダーで、ソロで日本一周中だとのこと。
Mちゃんも同じくソロで日本一周中であり、Sさんとここで出会い意気投合したという。

Sさんは長髪を掻き揚げながら「ヨロシク」と声をかけてくれた。

あとの二人は大学生二人組みで、彼らは大学の友達同士二人で北海道をツーリングしているとのこと。
やはりここのキャンプ場に着いたところ、Mちゃんに声をかけられたらしい。
彼らはまぁA君とB君にしておこう。(若干適当感は否めないが(笑))

早速即席の5人組で酒宴が始まった。

まずはお約束の、お互いの旅の軌跡の披露から話は弾んでいく。
何しろソロで日本一周しているライダーが二人もいるのだ。
話のネタは尽きなかった。
特にSさんは、それなりに年齢を重ねているだけあって、話の重みが違っていた。

不動産関係で全国的でもトップレベルの営業マンだった彼は、40を境に仕事をリタイヤして、現在九州にライダーハウスを営業するための準備をしているという。


元々ロングツーリングは大好きだったけど、今回の旅は「ライダーハウスの宣伝のためなんだよね。北海道には旅好きのライダーが集まるからさ」と僕にも近日オープン予定のライダーハウスのチラシをくれた。

逆にA君とB君は、ロングツーリングは初めてらしく、若いライダーにありがちな失敗談を披露する。
Mちゃんは関西人なので、人の話への盛り上げ方がうまく、場はまるで旧知の知り合いの宴会のように賑やかになった。

僕はすっかりくつろいで、皆の話に腹を抱えて笑い転げた。

旅先でこんな気分になるのは何年振りだろうか?
僕はその時期、旅先では意識的にライダーとの接触を避けているようなところがあった。


キャンプ場でのライダー同士の会話というものが、ともすれば予定調和的な退屈なものに思えていた時期だったということもあるし、単純に仕事柄旅先では一人になることを望んでいたのかもしれない。

話が一通り盛り上がったところで、何となくそのグループではリーダー格になっていたSさんがこう言った。

「よし!これから風呂行くぞ!」

そのキャンプ場は24時間いつでも無料で入れる露天風呂が有名なのだが、Sさんは「そこじゃないんだよナ」とニヤリとした。

「まぁ付いておいでよ」と言うSさんの後に、皆がそれぞれのヘッドランプを頭につけて後に続いた。


露天風呂を横目に、湖畔の山道をSさんの先導に続き歩く。
道は真っ暗で、とてもこの先に風呂があるように思えなかった。
しかし5分も歩くと、突然目の前に木造の結構立派な建物が現れたのだ。


「ここは地元の人間しか知らないんだよね」とSさんはまたニヤリとすると先に建物の中に入っていった。

そこは大きな脱衣所もちゃんと備えられた内湯で、地元の人間だけがひっそりと使うだけではもったいないくらいの立派なものだった。
もちろんそんな夜中に地元の人がいるわけもなく、その内湯は僕らだけの貸切となった。

浴室には先にMちゃんに入ってもらい、男連中はMちゃんの合図があるまでは外で待っていた。

「えぇで~入っといで~や~」とMちゃんの声。

脱衣所にも浴室にも灯りというものは一切無く、僕達がめいめいに持っていたヘッドランプだけが頼りだ。

そんな薄暗い中に先に入っていたMちゃんが叫び声が響く。

「何やこれ??ムッチャ熱いで!!」

僕も恐る恐る足を浴槽に漬けてみる。


「アッチイッ!!」


半端じゃない熱さだ。足を10秒も漬けていると火傷しそうだ。

しかしSさんだけは涼しい顔で、肩まで浸かっている。
「Sさんホントは熱いんちゃうの?やせ我慢しとるやろぉ?」とMちゃんが言うと、Sさんは「そんなことないよ」と即座に否定。

僕等も「絶対ウソだって!熱いに決まってるじゃん!!」とやいのやいのからかうと、Sさんは突然僕等に向かって風呂のお湯をかけ始めた。

「熱っつい!熱いってSさん!!」と僕等は逃げ回る。
Sさんはそれを見てまた笑いながらお湯を盛大に撒き散らし始めた。
40過ぎてんのに何という大人げの無さだ(笑)。

しかしそんな子供じみたことが、僕にはむしょうに楽しかったのだ。僕だって30は大きく過ぎていた頃だというのに。

そのうち慣れてきたのか僕達も短時間なら肩まで浸かれるようになってきた。
お湯の熱さに慣れてくる頃には目も暗闇に慣れてくる。

そこで気がついたのだが、Mちゃんは流石ロングツアラーらしく全く物怖じせず、身体にはタオルも何も巻いていなかった。

僕はその時、自分のヘッドランプがホームセンターで買った安物であることを心の底から後悔した(笑)。

風呂の中でもバカ話の続きに興じる。

風呂から上がると、皆に「おやすみなさい」と挨拶して自分のテントへと引き上げた。


聞くと4人は共同で一棟のバンガローを借りているらしく、そこで一緒に寝ることを誘われたけれど、僕はテントで一人で過ごす時間も好きなので御礼を言って断った。

テントに帰ると、あらためて焼酎のお湯割りを飲みながら文庫本に目を落とした。
思わぬ楽しい夜になったことへの充足感からか、心地のいい眠気はすぐにやってきた。

 

 

その翌日から僕は、MちゃんやSさんと行動をともにした。

そうは言っても昼間はぞれぞれ別行動だ。


付き合ってみれば分かるけど、時間的制約のないロングツアラーというのはとにかく腰が重たい。
お尻が決まっていないので、無理に出かける必要が無いのだ。
「天気がイマイチ」とか「眠い」とかそんな理由で、あっさりと停滞する。

悪いことに北海道の快適な無人キャンプ場に停滞していれば、ほとんどお金を使わずに過ごせる。
かかるのは食事代くらいだし、それだって自炊すればたかが知れている。
出かければむしろガソリン代の方が高くつくのだ。
何といっても風呂まで無料なのだから。

しかし、日程の決まっている我ら勤労ツアラーはそんな悠長なペースにはとても付き合っていられない。

シュラフの中から顔だけ出して「いってらっしゃ~~い」と言う彼らを尻目に僕は道東を走り回った。

そのキャンプ場をベースにすれば、知床方面も釧路方面もぐるっと回って日帰りコースだ。
幸いその年のツーリングはそこそこ天気には恵まれた。

僕は昼間は思う存分一人で走り回り、夜になると彼らの待つキャンプ場へと帰った。

その小さなコミニティは、日によってMちゃんとSさん以外は微妙に入れ替わった。
時間に自由が利く大学生でも、全く彼らと同じペースとはいかないようで、A君もB君も
それぞれと次の目的地へと旅立っていった。

しかし仲間に引き入れるのは決まって若い学生ライダーだった。
北海道に来る若いライダーの体験談ほど面白いものはない。

彼らが披露する失敗談に、Mちゃんが絶妙な突っ込みを入れて盛り上げ、僕らはやはりバンガローの床にのた打ち回って笑い転げた。

そして最後には決まってまたあの温泉へと出かけた。

二日目の晩には僕も「こんなの全然熱くないよ」という顔をして肩まで浸かり、やっぱりSさんは初体験の若いライダーにお湯をかけて回っていた。

Mちゃんは相変わらず何も身に着けていないようだったが、残念なことに僕のヘッドランプのバッテリーは日に日に弱っていき、自分の手を見るのがやっとくらいの頼りなさだった。


翌年ペツル社製の強力なヘッドランプを購入したのが、このことと無関係とは僕自身言い切れなかったりもするのだ(笑)。

二日目の晩には僕は自分のテントも片付け、バンガローに引っ越した。
Sさんのイビキの凄まじさに若干の後悔がなくもなかったのだが。


さて、僕とてツーリングの期間は一週間と時間が限られているため、彼らとの楽しい日々も終わりを告げるときがやってきた。

僕はその最後の日の夕刻、道東を去らねばならない名残惜しさから、すっかり暗くなるまで知床付近でグズグズとしていた。
横断道路から見るウトロの夕日の素晴らしさにポカンと我を忘れていたせいでもある。

斜里に着いた辺りではもうすっかり真っ暗になっていた。

僕は斜里の街中のスーパーで晩飯の食材の買出しをした。
ここからキャンプ場のある弟子屈町までは完全な山の中になってしまうし、商店なども全く無い。

僕はそのスーパーからMちゃんの携帯に電話をした。
「今斜里のスーパーで買出し中だけど、何かいるモノある?ついでに買ってくよ」

Mちゃんはちょっと「う~~ん・・」と考えてからこう言った。
「特に大丈夫。それよりも気をつけて早う帰っといで」

僕はすれ違う車も、街灯もない真っ暗な山道を走りながらその言葉を反芻していた。


「気をつけて早う帰っといで・・・か・・・」


どうしたというんだオレは?こんなシンプルで、飾りのない言葉にヤられてしまうなんて。

いつだってソロライダーを気取ってたんじゃないのか?
いちいち群れたがるライダーから意識的に距離を置いていたんじゃないのか?
っていうか、この数日間のこの楽しさは何なのだ?

小清水町から川湯温泉、そして弟子屈へ。

僕にはその漆黒の山道が暗くも寒くも感じられなかった。

バンガローへ帰るとMちゃんは「お帰りなさい」と迎えてくれた。Sさんも「おかえりー」と笑っている。
また新顔ライダーが加わっているようだ。


僕はいつの頃からか、夏になるとオートバイで一定期間ロングツーリングに出る習慣を絶やしたことはないのだけれど、悔しいことにこの年の北海道行きは一際思い出に残っている。

その翌年から僕は、ロングツーリングの時に「一言でも口をきいた人の写真を必ず撮らせてもらう」ことを自分への課題とするようになった。
これが思ったほどうまくはいかない。「引かれたらどうしよう?」とか逡巡しているうちに、どんどんその機会を逃してしまった。

しかし僕はそれをするようになってから、ますます人との出会いの不思議さに思いを馳せるようになっていった。
たまたまその場所に、その時間にいなければ、一生出会うことも無かったであろう人と世間話をしたり、時に食事やお菓子のご相伴にあずかったりもするその不思議さ。

「袖触れ合うも他生の縁」
日本語というのは素晴らしい。

そして、ソロツーリングの魅力というのは、一人の殻に閉じこもることではなく、ましてや孤高を気取ることでもなく、ソロだからこそ出会える人との触れ合いこそが最大の魅力なんじゃないか?という至極当たり前の結論に達するのに、随分と時間を食ってしまった。

それを教えてくれたのはやはりMちゃんの「早う帰っといで」の一言が大きい。
人はどこかへ帰るために旅をする。

その後しばらくはMちゃんから「朝起きたらキャンプ場が雪に覆われてたので北海道脱出するよ!」とか「今石垣島だよー」とかそんなメールが届いたけど、そのうちその音信も途絶えた。

果たして彼女は旅の先に辿り着くべき場所を見つけられただろうか?