AM7:00のパンケーキ


僕は焦っていた。


一刻も早く中型免許を手にしなくてはいけなかった。


別に何かツーリングの予定があったとか、先にバイクを手に入れてしまって免許を慌てて取りに行かねばならないとかそういった差し迫った事情があったわけではない。


その頃の僕にとっては、中型免許というのは現実からテイクオフするための魔法の絨毯でもあった。


若さというのは素晴らしく自分勝手だ。日常のうまくいかないことはほとんどが他人のせいだ。


その頃の僕は、マンネリ気味のアルバイトも、留年すれすれの単位数も、そして何よりもどうにも空回りばかりしている恋の行方も全て「中型免許を取って、オートバイを手にさえ入れれば全て解決する」と本気で思い込んでいる節があった。

しかし何よりも先立つものは資金だ。


悪いことに僕はその時期ちょうど学生寮を引き払ってアパートを借りたばかりだったので、敷金・礼金・引越し費用に多額の費用を捻出せねばならず、その上で教習所の代金とオートバイの購入費用も貯めなくてはならなかった。

メインの居酒屋のバイトのシフトを目一杯入れてもらうように店長に頼み込んで、ほぼ毎日開店時間の夕方から閉店の深夜まで居酒屋で働くと、一時間ほど間を置いて居酒屋の隣のファミレスで朝まで皿洗いをした。

多い時は夕方の5時から翌朝の7時までひたすら働いた。

一日の労働拘束時間が14時間の労働者などこの国では珍しいことではないのだろうけど、目が回るように忙しいピーク時の居酒屋の調理場でひたすら焼き鳥やトウモロコシを焼き、深夜の時間帯はキッチンをピカピカに磨き上げ、ファミレスではただただ皿洗いだけをすると、いくら若い時分でもバイト上がりの時間にはグッタリと疲れ果ててしまった。

僕はとにかく1分でも早くアパートに帰って湿った万年床に直行してしまいたかったのだけど、そのファミレスではどういうわけか、深夜3時~朝7時までの「ミッドナイト」と区分されるバイト連中の間で、バイト明けに今まで自分達が働いていたそのファミレスでモーニングを食べながら小一時間談笑する・・・という麗しくも迷惑千万な(笑)風習があり、いくら金のためだけに割り切って黙々と皿洗いをしているというポジションに徹していた僕も時々付き合わざるを得なかった。


しかしそのミッドナイトの時間帯にバイトをしている人々はみな何だかちょっとワケあり風でもあり、その分仲間意識も強く、後輩への面倒見のいい人が多かったので僕はそういう時間がただ苦痛というわけでもなかった。

とりわけその中でもリーダー格だったNさんという人は、憑かれたようにバイトに勤しむ僕に何かと目をかけてくれて可愛がってくれた。
Nさん自身Z400GPを駆るライダーでもあったので、僕は将来時分が買うべきオートバイについて、そのモーニングの時間に相談に乗ってもらったりしていた。


そういう時間はバイト疲れもしばし忘れるくらい僕にとっては楽しい時間であったのは間違いない。

そんなバイト仲間の中にA子という専門学校生がいた。

A子は僕よりも一つか二つ年下だったが、その店の深夜枠のバイトではそこそこの古株らしかった。

他の深夜バイトのメンバー同様、A子もちょっと風変わりな女の子だった。


どこがどうと言われると表現し難いし、仕事中に何か奇行が目立つということもなく普通にマジメに働いているのだけど、同年代の女性同士のお付き合いに特有の予定調和的な馴れ合いというものには全く関心がないようで、結構言いたいことをズバズバ言ってしまうようなところが他の女子のバイトからは距離を置かせていたようだ。

深夜枠だけならそうでもなかったが、A子はどういう事情からか通常の「ディナー」の時間帯から通しで働いていたので、他の時間帯のバイトの女の子からは結構煙たがられていたようだ。

そんなA子だったけど、親分肌で職場の誰からも慕われていたNさんがなぜかA子のことをとりわけ可愛がっていて、その辺りも他の女子バイトのヤッカミの遠因になったりしていたようなのだ。

僕はその店のバイトは資金稼ぎのための短期バイトと割り切っていて、店長にもその旨了承してもらっていたので、そういう職場での人間関係にはあまり関わらないように距離を置いていた。


ほとんどのバイトにとって僕は名前も覚えてもらっていない「洗い場さん」だったし、僕もそのポジションの方が居心地がよかったのだ。

しかしA子は僕のことを放っておいてくれなかった。

A子はバイトの終業時間が見え始める朝の6時半頃になると決まって「♪まっさかさ~ま~に落ちてデザイア~♪」と大声で歌いながら僕のところへやってきて、洗い物でいっぱいになったバスボックスをガシャンと置くと「藤森クンはBセットでいいよね!」と決め付けるように言うと、また「♪まっさかさ~ま~に~♪」と歌いながらホールへと戻っていった。


僕の返事など全く聞かず、A子は仕事上がりのモーニングの段取りをいつもこうして決めてしまうのだが、僕はどういうわけか年下のA子の言動に逆らうことが出来ずに、ヘトヘトになってバイトを終えると、「こっちこっち!」とA子が手を振っている席にストンと腰を下ろしてしまうのだった。

メニューはいつもA子が勝手に決めるBセットで、メインのパンケーキにまた勝手にA子がタップリとバターを塗ってハチミツをドロドロとかけてしまうので、僕は洗い場の残飯の臭いにムカツキ気味の胃に、その甘ったるいパンケーキを放り込むはめになった。

Nさんは「A子!お前なぁ・・藤森が困ってるやんか。いい加減にしたれよ」と優しく嗜めてもお構いなしだったし、僕はやはりなぜかその場でもA子のなすがままだった。


僕は子供の頃から、僕のこの優柔不断さの先回りをしてアレコレ段取りしてしまう女の子には逆らえないという致命的な弱点があった。


僕が女の子だったらさぞかし強引で自分勝手な男の言いなりになって酷い目にあっているに違いない。

しかし僕はけっしてA子のことを嫌いではなかった。もちろん恋愛感情はいっさい無かったけど、他の寄ると触ると他人の噂話ばかりしている女の子といるよりは心地がよかった。


少なくともA子が他人の悪口を言うのを聞いたことがない。

僕はパンケーキをつつきながら熱心にNさんとバイク談義をし、A子は横でそれを結構楽しそうに聞いていた。「ええなぁ。私も中免取ろうかなぁ」などと呟いていた。


A子はいつもそのバイト先にブルーのホンダスカイで通っていて、その風防部分にはわけのわからないステッカーがベタベタと貼られていた。


さてそんなある日、朝7時あがりのバイトが僕とA子の二人しかいないことがあった。

A子はまた「♪まっさかさ~ま~に~♪」と大声で洗い場に近づいてくると「今日はどうする?またBセット?」と聞いてきた。


「また」とか言ってるけど、いつもお前が勝手に決めてるだけじゃないか・・・と僕は内心舌打ちしつつ「うーん・・今日はなぁ・・Nさんもおれへんしオレ帰るわ」と答えた。

A子は「ふーん」とだけ言うとまた歌いながらホールに戻った。

しかしバイトが終わって、僕が店の前に停めてある自分のDT50のところへ行くと、隣に停めたスカイの横でA子が僕の姿を認め

「今日はさぁ!パン買って藤森クンちで食べよ!近いんやろ?」

と言うが早いがスタスタと僕の返事も聞かずに隣のコンビニへと向かってしまった。


「おい何勝手に決めてんだよ!」と抗議しながらも、僕はナゼか魔法にかかったようにA子の後についてコンビニに入ると、自分のパンを選んでしまっている。


「お前よぉ!誰がいいって言ったよ」と言いながらもパンを籠に入れてしまっている僕にA子は「牛乳もね」とか命令口調だ。

ナゼだ!?なぜオレはこいつの言いなりなんだ??

A子と二人いそいそと朝食を買いこんでいるところなんかを、僕が恋焦がれているYさんに見られたら台無しじゃないか!
YさんはA子と違って良家の子女なので、こんな時間にウロウロしていることはないだろうがしかし・・・

というような僕の思惑にA子が頓着することは当然のことながら一切なく、パンの袋を抱えてニコニコしながらバイクのところに戻ると「行こ」と僕に笑いかけた。


抗う術もなく、僕はDTのエンジンをかける。


僕のアパートはバイト先から2kmくらいしかなかったので、二台の原付で10分も走れば到着してしまう距離だ。
A子は部屋に上がるなり「汚ったない部屋ねぇ」などと毒づきながらも、さっさとコタツに潜り込んでパンの袋をゴソゴソと破りだした。

「お前よぉ。パン食ったらさっさと帰れよ。オレは眠いんだからさ」と言う僕の言葉が聞こえているのかいないのか、A子はパンをモソモソと食べながら、その辺に転がっていたビッグコミックスピリッツをワハハと笑いながら読んでいる。


そのうちパンを食べ終わるとコタツの中で腹ばいになり、本格的にマンガに没頭しだしてしまった。

僕はわざとらしく「ハァ」とため息をついて、パンを牛乳で流し込んだ。

 

動く気配のないA子の様子を見て、半ばあきらめた僕もコタツの中で腹ばいになるとやはりその辺に転がっていた週刊モーニングを手に取った。

ページをめくる音と、時折A子がクツクツとたてる笑い声だけが6畳一間のアパートに聞こえていたかと思うと、それがそのうち「スー・・スー・・」という寝息に変わった。

イヤな予感がしてA子の方を見ると、本格的に肩までコタツに浸かって眠ってしまっている。
僕はさっきよりも大きいため息をつくと、冷蔵庫からビールを取り出して、窓辺に腰掛けて口をつけた。

コイツはいつもはあんな調子だけど、案外色々なものと闘ってるのかもなァ・・


それは自分が相容れない「世間一般」とかかもしれないし、そういう「世間一般とは相容れない自分の性格」かもしれない。


そんなことを思いながらA子の寝顔を見つめていたけれど、その寝息が段々イビキに近いものに変わってくるにつれ、「いや・・やっぱりコイツは何も考えていないに違いない」と思いなおし、僕は黴臭く湿った布団に潜り込んで寝た。

夕方近くに目が覚めるとA子はいなくなっていた。


それから数日僕はA子とはシフトがずれて顔を合わせることが無かったのだが、ある日の深夜、黙々と食器に洗剤をこすり付けている僕の耳にあの歌声が聞こえてきた。


A子は「よっろしっくぅ!」と変な節使いで皿が満載になったバスボックスをガシャン!と置き、2~3歩ホールへ帰りかけたかと思うと、スタスタのまた洗い場まで戻ってきて、「フジモリノアホ」と僕の耳元で囁いた。


呆気に取られているうちに、A子はまた歌いながらホールへ戻る。

僕はまた溜まりに溜まった洗い物をシンクに放り込みながら、「アホはお前じゃ!」とひとりごちた。


その後しばらくして、目標金額の貯金が出来た僕はファミレスのバイトをやめた。
大学も新学期が始まる時期だったので、そうそうバイトばかりもしていられなかったこともある。

中型免許も無事取得し、僕は友人のまた友人から中古のRZ250Rを格安で譲ってもらった。

風のウワサでA子はそのファミレスを辞めて、信号のはす向かいにあるライバル店でバイトを始めたと聞いた。
どういう事情があったかは知る由もない。

しかし時々、朝方そのライバル店の前をRZで通ると、あのペタペタと変なステッカーをたくさん貼り付けたブルーのスカイを見かけることがあった。


僕はそういう時は思わず「まっさかさ~ま~に~落ちてデザイア♪」とメットの中で歌った。

同じ街で暮らして、同じ街でバイトをしているのに、A子本人に会うことは全然無かった。


携帯もPCも影も形も無い時代だし、ましてや一人暮らしの学生は、僕と同様家の固定電話すらつけていないヤツが多かったので、よっぽど意識していなければ人々は今よりも簡単に音信不通になった。

次第に僕はA子のことも忘れていき、そしてあの店の前でブルーのスカイを見かけることもなくなった。