明けない梅雨
僕はとある有名温泉旅館の玄関で、宿の受付の男性の電話が終わるのをイライラしながら待ち続けていた。
50代と思しきその宿の男性は、僕の存在に気が付いているのは確実なのに、僕の方をちらりと見もしなかった。
しかも漏れ聞こえてくる電話の内容は、お客さんからの問合せだったり、何か火急な用事ではなさそうな、「同業者同士の和やかな情報交換」にしか感じられないものだった。要するに取るに足らない雑談だ。
悪いことにこの男性の他に、宿の従業員は見当たらなかった。
僕はどうしてもその宿の有名な露天風呂に入りたくて訪ねてきたのに、受付の男性が電話を切らないためにそこで待ちぼうけの形になってしまっていた。
今の僕だったら客の相手をしない従業員のことなどは見切りをつけてズカズカと上がり込み、他の従業員を捉まえるか、さっさと勝手に風呂に入って代金は後払いするなり幾らでも方法は思い付けるのだけど、まだ20代の僕にはそこまでの図々しさも機転もなく、ただ男性が電話を切るのを待ち続けた。
そして15分ほど後、電話を切った男性に日帰り入浴したい旨伝えると、「もう受付時間は終了した」と悪びれる様子もなく告げられた。
1994年の夏、三泊四日の東北ツーリングの最中の二日目の出来事だ。
この年は梅雨明けが遅れ、8月になっても降ったり止んだりの不安定な天候が続いた。
初の東北ツーリングで僕は思い知らされたのは、「東北の予想以上の広さ」と「250cc単気筒オフロードバイクの長距離移動性能の限界点」だ。
正直僕はその時点でかなり疲れていた。
距離を稼ぐために、休日前夜に出発し、ほぼ徹夜で高速道路を走り続けたこともその要因だった。
そもそも四日間で愛知県から自走で東北を楽しむのは無理があったのだ。
そのうえ僕は計画らしい計画も立てず、宿の予約もキャンプ場の当てもつけず、行き当たりばったりでただ北上した。
そんな中でこの温泉だけは「ほぼ唯一の目的地」だったのだ。
それなのに受けたのは冒頭に記したような仕打ちだった。
前日ツーリングマップルの情報を頼りに泊ったキャンプ場は、完全なオートキャンプ場で、オートバイでのソロキャンプには全く不向きな環境(サイトはロープで区割りされ、受付ロビーでは「親子木工教室」が開かれ、テントの目の前で少年たちがバスケットボールに興じていた)だったことも僕の気持ちを萎えさせていた。
まだネットもスマホも無い時代、全く土地勘のないエリアで行き当たりばったりの旅をするのは予想以上に「自由」ではなかった。
端的に言えば僕は旅の途中から、何をすればいいのかよく分からなくなっていた。
そもそもが「オートバイに乗っていればそれだけで満たされる」タイプでもないのだ。
そしてダメ押しのように温泉で受けた仕打ちは、僕の気持ちを折るに充分だった。
時刻は夕方の4時近くになり、もうこの時間からキャンプ場や野宿地を探す気力も失っていた。
相変わらずいつ止むとも知れない細かい雨が降り続いていた。
暮色も濃くなる中、取り急ぎこの日の宿を見つけるために、山道をとりあえず市街地に向けて走った。
すると山間部の国道沿いに、こじんまりとした民宿らしきものが建っているのが見えた。
「あ・・・ここでいいや・・・」
もう直感的にそう思った。
市街地に行けばビジネスホテルくらいあるだろうけど、僕はビジネスホテルのあの味気ない閉鎖空間が苦手なのだ。
僕はオートバイを停めると、宿の玄関扉を開け「すいません・・・」と声をかけてみた。
先ほどの温泉宿とは違い、とても愛想のいい30代くらいと思しき女将さんがすぐに対応してくれた。
「今日って宿泊できますか?」と聞くと女将さんは「ちょっと待っててね」と奥へと引っ込んだ。
恐らく食事の準備が可能かどうか板さんに確認しに行ってくれてるのだろう。
ものの1分もしないうちに戻ってきた女将さんは満面の笑みで「大丈夫だって。二食付きで1万円だけどいい?」と聞いてくれた。
正直、この頃の僕にとって1万円はツーリングで宿泊する宿の上限金額一杯だったのだけど、「もちろん構いません」と答えた。
もう僕はホッとして力が抜けた。
無計画なツーリングで、その日の宿が確保出来た時の安心感は格別なものがある。
女将さんは「雨ばっかりだからバイクだと冷えたでしょ?すぐにお風呂に入るといいわ」と僕を中に招じ入れてくれた。
案内された部屋はそれほど広くはないけど、とてもきちんと掃除が行き届いているのが分かる清潔な部屋だった。
浴場もやはりそれほど広くはなかったけれど、ほぼほぼ二日間雨に打たれ続けた身をくつろがせるには充分な快適さだったし、やはりとても清潔だった。
そして何よりも食事が素晴らしかった。
東北は既に秋の走りらしく、地のキノコ料理などを中心とした、とても美味しくてボリュームのあるものだった。
平日のこんな悪天候続きなのに、宿には結構な泊り客がいる。
割と常連さんに人気の宿なのだろう。
そして単身者は僕一人だったからか、女将さんは「どう?美味しい?」とか「ご飯おかわりあるからね」などと何かと気を使ってくれた。
逆に、声高にキノコの蘊蓄を語っている中年の男性客グループのことは明らかに適当にあしらっていた。
多分そういうお客さんが苦手なんだろう。
僕はなんだか可笑しくなって、そしてこの宿と女将さんのことをとても好きになった。
女将さんは食事を終えた僕に「お風呂は24時間入れるからね。好きな時に入りなさいね」と声をかけてくれた。
前々日は夜通し走ってSAのベンチで仮眠しただけだったし、昨日はあまり意に沿わないキャンプ場での雨天キャンプだったせいか、この日は晩御飯を終えると、清潔なシーツに包まれた布団の中で即座に深い眠りに落ちた。
三日目も相変わらずノープランだったが、全四日間の休みだと三日目は帰路に当てないと最終日が辛くなる。
空は相変わらずの雨模様だ。
僕はもうあくせく「どこかに行こう」という欲求も消えうせていたため、やはりボリューム満点の朝食を食べ終えるとチェックアウトの時間ギリギリまで二度寝をした。
他のお客さんが全てで払った後にチェックアウトを済ませると、女将さんは「急いでないんだったらコーヒーでも飲んでいきなさいよ」と僕にソファーに座るよう勧めてくれた。
女将さんは二人分のコーヒーを運んでくると、向かいのソファーに座って、僕がどういう旅をしてここに辿り着いたのかをあれこれ質問してきた。
僕が昨日の温泉宿の対応について愚痴ると、女将さんは「あら・・・同じ土地の宿で嫌な思いさせちゃってゴメンナサイね」と謝り、続けて「あそこはねぇ・・老舗だからちょっとそういうことろあるのよね」とため息をついた。
聞けば女将さんとそのご主人は、よその土地から移り住んでここの民宿を始めたらしい。
僕は旅に出る前に読んだ著名な歴史小説家の紀行文に、この土地の独特の保守性と狭量性について記されていたことなどを話すと、女将さんは増々大きなため息をついて「そうなのよねぇ・・・」とこぼした。
そして「余所者がこの土地で商売することの大変さ」を軽く愚痴ったあと「あら・・ごめんなさい!私お客さんにこんな話して」と笑いながらちょっと赤らんだ。
そんな感じで、お客さんが全てで払った静かな宿の午前中を僕は女将さんと雑談で過ごした。
僕はどういうわけか、時々ひどく僕のことを可愛がってくれる年上の女性と出会う。
それは絶対数ではかなり少ないのだけど、小学校の先生や高校の先生など、数年に一人くらい「依怙贔屓なんじゃないか?」と思えるくらい僕のことに目をかけてくれる女性が現れた。
当時30歳くらいだった高校の現代国語のY先生は、僕の大学合格のお祝いとしてフレンチレストランに食事に連れて行ってくれたりもした。
学校の先生とは言え、女性と二人きりでちゃんと食事をした経験なんか皆無だった当時の僕は何だかすごくドギマギしたし、母親は担任でもない教師が生徒の合格祝いを個人的にすることを軽く訝しんだ。
そういう女性に何か共通点があるかどうかは僕には分からない。
ただ「ある種の女性たちは」としか僕には表現も解釈もしようがない。
そしてここの女将さんも、「お客さんだから」という以上に僕に目をかけて優しくしてくれた。
もういいじゃん。
雨続きでパッとしないツーリングだったけど、この宿と女将さんに出会えただけでこの旅は良しとしよう。
僕はもうその日、どこにも寄らずに千葉の実家に帰ることにした。
ここからだと程よい中継地点だし、そうすれば最終日は千葉から名古屋まで淡々と移動するだけだ。
そう決めてしまうと何だか気持ちが急に軽くなった。
やっぱり「予定が決まってる」というのは精神的に楽だ。
日程的に制約があるなか、無計画な旅はかえってフットワークを鈍くすることを僕はこの旅で学んだ。
宿を出発するとき、女将さんはバイクが見えなくなる距離まで手を振って見送ってくれた。
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それから約20年後の夏。
たまたま僕はこのエリアにツーリングに来ていた。
正直、あの宿のことも女将さんのことも忘却の彼方ではあったのだけど、近くまで来て急に思い出したのだ。
うろ覚えの記憶をほじくり返して周辺を走っていると、確かにその場所にその宿はあった。
正確に言うのであれば「宿の痕跡が」と言うべきかもしれない。宿は廃業していた。
駐車場の入り口にはカラーコーンにロープが張られ、建物の玄関には「売家」と書かれた紙が貼られていた。
しかしまだ綺麗に残っている看板に書かれている宿の屋号は、僕の記憶のそれそのままだった。
建物の様子から、廃業したのはそれほど前のことではないらしい。
僕はオートバイから降りると、その廃屋となった建物を唖然と眺めた。
軽く胸を刺すような痛み。
あれほど良くしてくれたのに、定宿にするには遠すぎるし、その後手紙なりハガキなどで連絡を取り合うほどのマメさもなかった。
言い訳のようだけれども、20代後半から30代前半にかけては、仕事やプライベートでのライフスタイルの変化が大きく、以前たまたま旅の途中で泊った宿のことを思い出すこともほとんど無かったのだ。
あの女将さん夫婦はどうしたのだろう?
考えたところで何にもならないのは分かっていたけど思いを馳せずにはいられなかった。
とても親切で愛想はよかったけれど、媚びることが苦手そうだった女将さんは、この保守的な土地柄でそれなりに苦労されたであろうことは何となく想像がついた。
しかし、20年前にたった一回宿泊しただけの僕がそれを考えたところで実質的に出来ることは何一つないのだ。
もうちょっと早くもう一回泊りに来てれば・・・とか、せめて御礼のハガキ一枚くらい出しておけば・・・と思わなくもなかったけれど、結局「やらなかったこと」は後悔したところで何一つ生み出しはしない。
それは人生の選択肢の中の合理的帰結であることに変わりはないのだ。
僕はヘルメットをかぶり直すとまたオートバイに跨った。
そして1994年の夏は、8月の終わりになって気象庁が「今年は梅雨が明けないまま夏が終わりました」と発表したことを思い出した。
そして20年後のこの日も、朝から冷たい雨が降っていた。