GO! EAST!!


僕は怒りにまかせて叩きつけた受話器をしばらく眺めていた。駅前の公衆電話ボックスの中だ。

感情の昂まりが去ると、僕は今後自分が成すべきことについて考えを巡らせた。どう楽観的に見ても、事態は昂ぶる感情に任せていい状況ではなかったからだ。

話は3日ほど前に遡る。

秋雨というイメージからは程遠い土砂降りの中を、僕は大学の授業を終えてアパートに帰ってきた。駅からアパートまでは歩いて5分程度の道のりだったけど、僕のコンバースはもうぐっしょりと水を吸っていた。

そして僕はポストに、ちょっと分厚い青い封筒を発見した。


「ドキン」と胸が高鳴る。


ここ数日来待ち焦がれた封書である可能性が高かった。

雨に滲みかかった差し出し人のゴム印は、はっきりとそれが目的の手紙であることを示していた。

僕は自分の部屋に飛び込み、濡れて足にへばり付く靴下をもどかしく引っ剥がすと、濡れそぼった髪の毛やジャケットに染み込んだ雨を拭うことも忘れて手紙の封を切った。


この厚さなら・・という期待通り、それは目的の会社からの内定通知だった。

「やった!」

僕は一人っきりの部屋の中で拳を握り締めた。これで長かった就職活動からも解放される。しかも掛け値なしの第一志望だ。


僕はもう一度「やったぜ!」と声に出した。株式会社クシタニに内定した瞬間だ。

僕は内定通知に同封されていた各種書類に目を通した。内定者懇談会の案内とともに「保護者同意書」という書類が同封されている。

提出期限は10日後だった。

僕は家の中じゅうをひっくり返し、なんとか折れ曲がってない封筒を見つけ、それに自宅の住所を書き付けて「保護者同意書」を突っ込むとまた雨の中郵便局まで走った。


アパートの軒先で雨宿りする猫にまで「オレな。クシタニに合格したぜ」と自慢しながら走った。

何の心配もなかった。
バイク乗りの友人に自慢した時の羨望の眼差しを想像しただけでこみ上げる笑いを抑えることが出来なかった。


しかし事態は予想外の方へ流れた。父が難色を示したのだ。


それまで僕の就職については何も意見を挟まず、「お前の好きにしろ」しか言わなかった父親だ。僕だっていい加減大人だったし、就職試験や内定状況などについていちいち実家に報告なんかもしていなかった。

「反対」なんてことはこれっぽっちも想定していなかった。

そして駅前の電話ボックスで、事態は激しい口論の末物別れになった。


親元を離れて4年。僕はすっかり忘れていた。

父はオートバイが大嫌いだったのだ。



僕はその晩アルバイト先の居酒屋で焼き鳥を網の上でひっくり返しながら考えた。


長年やっているアルバイトなので、僕は目の前の作業と自分が為すべき思考とを完全に分離することができた。

もう自分の中でやるべきことはそれほど選択肢がなかった。手紙じゃ提出期限に間に合わないし、電話ではまた喧嘩になるだけだ。

僕は午前2時にアルバイトを終えると、アパートに取って返し、オートバイのリアシートに簡単な着替えとレインスーツだけ括りつけるとエンジンを始動させた。


このまま実家に向かうしかない。

僕は大学に入ってからオートバイに乗り始めたので、両親は僕がいかにこの乗り物に心を奪われてしまっているかを知らなかった。


この乗り物に関わる仕事が出来るのなら、僕は自分の生涯をそれに捧げてもいいと本気で考えていることを知らなかった。

見せるしかない。僕がオートバイに乗って駆けつけ、その姿を見せた上で直談判するのだ。

オートバイはほどなくアイドリングを安定させた。

85年式RZ250RR。
もちろん中古車だ。

前のオーナーが転倒してカウルを割ってしまったため、外装パーツを取り替え、ノンカウルの「R」仕様になっていた。
だからRなのに別体式サイレンサーで、それが僕の密かな自慢だった。

ただただ切れ角が少なくて乗りにくいだけだったマグラのセパレートハンドルをノーマルに戻し、デカール類もストロボから僕好みの白/赤ツートンの物に貼り替えていた。


それだけでうっとりするくらい均整の取れたオートバイに思えた。何より僕はヤマハのオートバイが好きだったのだ。


名古屋までは名阪国道を使うことにした。ほとんど無料なのに高速道路と同じアベレージで走れるし、この道は何度か走ったことがあるので安心感もあった。

藤井寺IC近くの雑居ビルの前で僕はオートバイを止めると、軽くアクセルを捻った。
灯りの点っていた二階の窓がカラリと開く。

「どうしたの?」と窓から声をかけてきた彼女に、「ちょっと実家まで行ってくるわ」と叫び返した。
「え?なに?聞こえない?」と耳に手を当てる彼女に手を振ると僕はRZを発進させた。

名古屋までは順調だった。


その当時東名阪の終点がどこだったのはすっかり忘れてしまったけれど、料金所のオジサンに「国道一号線はどこですか?」と聞くと、オジサンは道順を教えてくれて、それで僕はちゃんと国道一号線にたどり着いた。


地図に類するものは全く持っていなかったのだけれど、「国道一号線を東に向かえば実家のある千葉には必ず着く」というのがその時の僕の揺るぎない指標だったし、実際それは概ね間違っていなかった。

明け方の国道沿いの吉野家で朝食を済ませると、僕は国道一号線をひたすら東へ向かった。
浜松までもしごく順調だった。多分朝の8時か9時頃には着いていたと思う。

僕はなんだか拍子抜けする思いだった。


浜松といえば静岡県だ。もう静岡ってことは次は神奈川だ。
ってことはもうそこから東京を抜ければすぐに千葉県に入る。

「なんだ・・・下道で大阪から千葉なんてどうってことないな」

これが若さ故の無思慮というものだろう。
僕はその当時、静岡県の横の長さを実感として知らなかったのだ。なんせ地図を持っていないんだから確かめようもない。

そのうち道も混み始めた。
日本で一番の幹線国道なのだ。交通量はそれなりに多く、しかもトラックだらけだった。

しかも延々と郊外の退屈な景色が続いた。市街地、工業地帯、田畑・・・その繰り返しだ。

最初の猛烈な睡魔に襲われたのは掛川を過ぎた辺りだったろうか?
交通量の多い国道沿いに仮眠出来るような場所は見当たらず、僕はたまらず脇道にそれ、ちょっとした山道を登っていった。

ほどなく小さな茶屋があり、店の前に小さなベンチがあったけれど、まだお店は営業前でさすがに勝手に寝転がるのも気が引けて僕はそこから林の中に歩き、適当な草っ原に寝っ転がった。


瞬間意識は白濁する。

30~40分も眠っただろうか?
目を覚ましてオートバイを止めてある茶屋の前まで戻ると店は開いていた。


「すいません・・・勝手にオートバイ止めちゃって・・」とお店の中に謝ると、座敷にちょこんと座ったお婆ちゃんが「それは全然いいけど、あなた今までどこにいたの?」と聞いてきた。


僕が草むらで寝ていたことを告げると、お婆ちゃんは申し訳なさそうに、「あら・・・もうちょっと遅ければお店の中で寝かせてあげたのに」と言いながら僕にお茶をいれてくれた。

お茶を飲みながらお店に置いてあるパンフレットを手に取ると「子育て飴」の説明が書かれていた。何か言われのあるお店なのだろう。

御礼を言ってお店を辞した僕はまた国道一号線に舞い戻った。


眠気はすっかり取れていたけれど、それで道の退屈さが軽減されるわけではない。

時々海が見えて、その時だけはしばし苦痛を忘れたけれど、全く変化のない埃っぽい国道を走ることは苦行以外の何者でもなかった。段々と尻も痛くなってくる。

静岡駅前に着いた時はもう正午だった。最初の順調さは見る影もなかった。

国道沿いの小さな喫茶店で昼食を取ると、また睡魔に襲われた。
いくら若くたって寝ずに走れば睡魔は容赦なくやってくる。

ボックス席が二つほどと、カウンターに数席程度のお店は僕以外にお客はおらず、僕はお店のママ(そう・・ママというに相応しい風貌だった)に、スイマセン・・・ちょっとだけ眠らせてもらっていいですか?と断った。


「どうぞ好きにゆっくりしていって」と言ったママは、付けっぱなしのテレビの音量を絞ってくれた。

目が覚めても客は僕一人だった。


「あら?よく眠れた?」と聞いたママは「これはサービスしておくわ」とテーブルにコーヒーを運んでくれた。
とても「旅」とは言えない悲壮感を持って走っているつもりの道中だったけど、思いもかけずに立ち寄る先々で人々の親切に触れた。

コーヒーは美味しかった。

「どこまで行くの?」と聞くママに「ちょっと就職の相談で千葉の実家まで・・」と曖昧に答えると、「そう・・大変ね・・ゆっくり休んでいきなさいね」と、コーヒーのおかわりをカップに注いでくれた。



神奈川県に入った頃には、すっかり夕暮れになっていた。

景色は相変わらず変化の乏しいものだったけど、時間の経過に伴ってちゃんと人々の生活は進んでいた。


朝には集団登校の小学生を信号待ちで見守り、昼間は会社の営業車の間を縫って走り、夕暮れ時には買い物に向かう主婦や部活帰りの高校生が歩道を歩いていた。

僕はどんどん移動しているのに、それぞれの街では人々がちゃんと時間通りに生活を進めていることに妙な感慨を覚え、それはとても不思議な感覚も伴っていた。

三回目の睡魔はやってきたのは平塚だった。
大きな神社のベンチでたまらず横になり、30分後に目を覚ますと、周囲をニワトリが囲んでいた。

横浜ではバイク便のCBXの後ろについて走ったが、そうすると思いの他スムーズに渋滞の都市部を走り抜けられることにちょっとした感動を覚え、僕はそんな時少しだけ本来の重苦しい目的を忘れた。

横浜からは高速に乗った。
この辺の道は全く土地勘がなかったけれど、「千葉方面」という標識に従えば帰れるだろう・・というあまりに楽観的な考えはやはり時々打ち砕かれた。

僕には方向感覚に関して致命的な欠陥がある・・という自覚がまだそのころは芽生えていなかったのだ。

僕は現在地や行き先を見失う度に高速を降り、その度に何の考えも当てもなく右や左へ曲がり、たまたま目に付いたインターチェンジから高速に乗り、また見当はずれなところへ向かってることに気がつき高速を降りる。

そんなことを繰り返していたため、なんとか実家にたどり着いた時には午後7時になっていた。


いくらほとんど下道で来たとは言え、たっぷり16時間もかかった計算になる。
これはどう贔屓目に見ても許容を超えたタイムオーバーだった。


バイクのエンジンを止めるのももどかしく、僕は実家の玄関に飛び込んだ。
玄関先で驚いている母に向かって僕は「ハンコくれよ!」と手を差し出した。

しかし母の言葉は僕をもっと驚かせた。

「あらやだ・・・あなた帰ってきちゃったの?お母さんがお父さんを説得して、ちゃんと同意書に署名と捺印して、今日返送したわよ・・・速達で」

僕はそのまま玄関に崩れ落ちた。


なんてこった!!
この16時間650Kmの苦痛に満ちた道のりは全て無駄足だったってことか!ガッデム!!

しかし安心感がどっと襲ってきたのも確かだ。


僕は母が急遽用意してくれた夕食をかっこむと、母に「12時になったら起こして!そのまま帰るから・・」と告げて布団に直行した。

父はその時幸か不幸か不在だった。多分学生時代の友人と麻雀でも打っていたのだろう。

本当は一日くらい実家で休んでから帰りたかったのだが、アルバイト先に「明日休ませてくれないか?」と打診すると店長がこう言った。

「ダメだ。明日お前が出勤するのはお店とお前との約束だろ?お前ももうすぐ社会人になるんだ。そういう約束はちゃんと守れ」

約束なんかクソ喰らえと思ったけど、長く続けたアルバイト先を喧嘩別れで辞めるのも忍びなかったし、父と顔を合わせるのもなんとなく気まずかったのでとんぼ帰りの言い訳としてはちょうどよかった。

布団に入るや否や深い眠りに落ちていったけど、父が帰ってきて母と何やら語り合ってるのだけは薄っすらと聞こえてきた。

母に起こされた時にはもう父は寝ていた。
母は「途中で食べなさい」と風呂敷に包んだタッパを渡してくれた。

「あ・・それと・・」と財布を手に取ると「帰りは高速使いなさい。どうせお金ないんでしょ?」と一万円札を二枚渡してくれた。


実際所持金は帰りのガソリン代を考えるともうギリギリだった。


こうやって最終的には親に頼らざるを得ないから、オレはこうやって自分の就職のことも自分の意思だけでどうにも出来ないんじゃないか!・・と腹立たしく思ったけど背に腹は代えられない。


ありがたく押し頂いた。

帰りは夜中の東名高速をひた走った。

往路はあれほど離れて思えた街と街の間隔が信じられないほど短く、ビュンビュンと後方へ飛んでいった。

さすがに夜半は寒くなってカッパを着込んだ。
こういう時はかえって走っている間は寒さをあまり感じず、SAなどで休憩のために停車するととたんに震えがくることをこの時知った。

帰路は眠気に襲われることなく順調に進み、朝方には名古屋付近まで走ってきていたと記憶している。

恐らく東郷のSA辺りだろう。
空腹を覚えた僕は、母が手渡してくれた風呂敷を開いた。

タッパの上には一通の手紙が載っていた。

弁当に手をつける前に手紙を開いて見てみた。
そこには母の筆跡で、短くこう書かれていた。

「お父さんが『バイクを飛ばして帰ってきた根性だけは認めてやる』と言ってましたよ」

ふざけんな!何が「認めてやる」だ!!
あんたの偏屈のせいで、オレは30時間の間に往復1300キロも走るハメになったんじゃないか!!

しかし心の毒づきほど腹が立っていたわけでもなかった。
なにより母の握ったオニギリは美味しかった。すばらしく美味しかった。卵焼きも美味かった。

食べ終わると僕は、大きく伸びをした。
さて・・大阪まであと200Km。

東の空が紫色に色づき始めていた。